野口整体の基本的な考え方を簡単に説明します。
野口整体ってイマイチよく分からない。
手当て?足湯?活元運動?
色んな技術や考え方がありますが、このページではそれぞれの整体法ではなく、土台となっている考え方を紹介します。
野口整体は「活元運動」「愉気」「操法」「体癖」「整体体操」「潜在意識教育」が柱となった整体法の体系ですが、それらは方法論であって、目標は「全生」です。
整体の方法は多岐に渡りますが、大切な土台を忘れて技術ばかりに囚われると、違うものになってしまいます。
どの技術や方法にも土台となる思想は流れていますから、野口整体に興味を持った方にはぜひ覚えておいて欲しい内容です。(私も忘れないようにしたいです)
目標は「全生」で整体は方法
野口整体の目標は「全生」です。
「生を全うする」という意味ですが、いつも全力を発揮して生ききる、ということを目指しています。
だから「健康法」と言っても、「病気を治す」とか「病気にならない」ことではなく、「病気」や「風邪」にも「健康になろうとする力」を認めて全うすることを大切にします。
やりたいことをやって、楽々悠々生きることが全生です。
よく忘れてしまうことですが、活元運動、愉気、操法、体癖、潜在意識教育は方法論であって、目的は全生です。全力を発揮するために体を整えるのであって、整体法が目的ではありません。
野口晴哉の生き様と死に様
野口晴哉先生(1911−1976)は65歳で亡くなっていて、「健康の大家なのに全然長生きじゃないじゃん!」と言う方がいますが、整体では「長生き」を目指しているわけではありません。
先生は「生ききって死ぬ」ことの大切さを説かれ、ご自身も死の数日前までお仕事をされ、患うことなく息を引き取られました。
溌剌と生くる者にのみ深い眠りがある。生ききった者にだけ、安らかな死がある
生前よくおっしゃっていましたが、まさにそのような生き方、死に方だったことは奥様の書かれた伝記『回朴歯の下駄 回想の野口晴哉』を読めば分かります。
「弘法は六十二で死んだが、僕は六十五かな」と30年前に言ってたそうですが、その通りになりました。
もともと9種らしく毒舌な先生が、亡くなる年には「何もかも思う通りになった、もう何も欲しい物がない」「僕は幸せだ、いい女房だ」と言うようになったのが、哀しかったと回想されています。
2代目の裕介先生も60代で亡くなっていますが、ちょっと前まで普通に講義をされていたと思ったら、 訃報を聞いて耳を疑いました。
私が知らないだけかもしれませんが、整体関係者であまり長患いしたということは聞かないし、皆さんさらっと亡くなる印象があります。
(みんな早世というわけではありません。例えば奥様は88歳まで生きられています。)
北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。
化して鳥と為るや、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。
怒して飛べば、其の翼は垂天の雲の若し。
是の鳥や、海の運くとき則ち将に南冥に徙らんとす。南冥とは天池なり。斉諧は、怪を志る者なり。諧の言に曰く、鵬の南冥に徙るや、水の撃すること三千里、扶搖に摶ちて上ること九万里、去るに六月の息を以てする者なりと。野馬や塵埃や、生物の息を以て相い吹くなり、天の蒼蒼たるは是れ正色なるか。是れ遠くして至極する所なければか。其の下を視るや、亦た是くの若くならんのみ。且夫れ水の積むや厚からざれば、則ち其の大舟を負するや力なし。杯水を拗堂の上に覆せば、則ち芥これが舟と為らんも、杯を焉に置かば則ち膠せん。水浅くして舟大なればなり。風の積むこと厚からざれば、則ち其の大翼を負するや力無し。故に九万里にして風斯ちに下に在り、而る後乃今や風に培り、背に青天を負いて、之を夭閼する者なし。而る後乃今や将に南を図らんとす。
蜩と学鳩之を笑いて曰く、我れ決起して飛び、楡枋に搶りて止まるも、時に則いは至らずして地に控つのみ。奚を以て九万里に之きて南を図らんや。莽蒼に適く者は、三飡にして反りて腹なお果然たるも、百里に適く者は、宿に糧を舂き、千里を適く者は三月糧を聚む。之の二虫また何ぞ知らん。小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばず。奚を以て其の然るを知るや。
荘子 逍遥游篇 第一
朝菌は晦朔を知らず、蟪蛄は春秋を知らず。此れ小年なり。楚の南に冥霊なる者有り、五百歳を以て春と為し、五百歳を以て秋と為す。上古に大椿なる者あり、八千歳を以て春と為し八千歳を以て秋と為す。而るに彭祖は乃今久を以て特り聞こえ、衆人之に匹ぶ、亦悲しからずや。湯の棘に問えることも、是れのみ。
それぞれの生を全うすればいいということですね。
ただ修行によっては、やり過ぎると寿命が縮むこともあるようで、高弟のK先生なんかは「多少寿命が短くなったって、気が視れた方が便利だろ。君もやれよ」なんて言ってて、本当に早世されたと聞きました。
気視えると、治療効果が上がるので患者さんが増えて忙しくなるということもあるかもしれませんが、達人的な先生の中には早世の方が多いのは事実のようです。
言われた先生は早死したくないし、やらなかったそうですが、気が視えなくても、10年、20年、30年…と、長いことやってれば観えてくるものがあるとのことでした。
私も特殊な感覚は全くないし、気も視えないですが、興味を持って観てると感受性が高まるというのはあるかも?
そういうこともあってか、最近はそういう修行はあまりしなくなってるみたいです。
おそらくですが、普通は視えないものが視えるというのは、松果体、いわゆる第三の目とかアジュナチャクラが開いた状態なのかなと思います。ヨーガの本山博先生の本によると、一つのチャクラだけが活性化されていると、偏りが起こって心身の不調に繋がるそうで、その解決策として全てのチャクラを満遍なく開発するのがいいそうです笑。
「視えてしまう」とか「予知能力」というのも、偏りの一種で、そういう能力の裏返しとして健康が損なわれている場合が多いようです。活元運動などで偏りが修正されると、健康になる代わりに、特殊能力もなくなるそうですから、どちらがいいかは自分で選べばいいと思います。
カリスマ的な人がいると、その人に「治してもらった」という感覚になって、頼ってしまう人が多いということもあり、晴哉先生は治療を捨てて、全力を発揮できるような体を育てるという意味で、整体を体育と位置づけました。
「全生=生を全うする」というのは、その場その場で全力を尽くすということですが、
死ぬ時に苦しむのは、エネルギーを使い果たしていないからと言われていて、エネルギーを出し惜しみせず、命を燃やし尽くすように生きることを理想とします。
理想なので、押し付けてるわけじゃないけど、
希望のない延命などお節介が過ぎるように感じる人は参考にしてみては?
全力の発揮には自発が大事
そのためには「自発」であることが重要だと説かれています。
人にやらされたことや、嫌々やったことでは全力を発揮できないからです。
人に頼まれたことでも、自分が楽しんでできればそれは「自発」。「人から言われたことなんか聞かん!」て意固地な態度とは別物だよ。
同じ作業をするのでも、お小遣いをあげたら喜んでできる人もいれば、「あなたにしかできない」と言われれば奮発する人、「楽しいから一緒にやろう!」と言えば動く人など、それぞれです。
体癖を学べば、その人の自発を引き出すことにも使えるかも?
本来は一人ひとりが自分の裡の要求で動くのが自発だけど、人にお願いする時は押し付けるのではなくて、自発を誘うように伝えるのは相手を損なわない為の嗜みかもしれないね
体癖は「全力を発揮できる方向性」です。
偏り疲労の調整としての活元運動
同様に、溌剌と生活して全力を発揮して生きていれば深く眠って疲れが抜ける、ということですが。
疲れというのは全身均等に疲れるわけではなくて、生活の癖や体癖によって疲れる部分が偏ってきます。例えば現代の生活なら目や首が疲れやすいですよね。
寝ても疲れがとれないと感じるのは、どこかゆるみきらない場所があるからです。これを「偏り疲労」と呼んでいます。
全身が弛み切らず、弛み切らないと緊り切れない。全力を発揮するには弛み切り、緊り切ることが必要です。意識した運動では知らずに偏ったまま動いてしまうので、偏り疲労の調整として無意識の運動である「活元運動」を利用します。
活元運動も全力を発揮するための方法ということですね。
知識より勘
整体では知識や頭で考えたことより、勘や意識しない働きを大切にします。
例えばどういう栄養のものをどれだけ食べるべきか、という知識より、美味しいと感じるものが今その体にとって必要と考えます。
「それでは暴飲暴食して太ってしまうのでは?」と思うかもしれませんが、本来体はそんなに馬鹿ではありません。
必要以上に食べてしまうのは「残すのはもったいない」とか思ってお腹いっぱいなのに食べて感覚を鈍感にしていたり、ストレスで緊張を緩めるために食べていたり、どこかにノーマルでない部分があるから食べ過ぎるのであって、体が整っていれば要求もノーマルになる、と言われています。
必要以上になると、同じものでも味がなくなるよ。分かりますか?
においを嗅いで「いいにおい~」って感じたら必要。そして脇目も振らずガツガツ食べる時は必要!
化学調味料とか香料入ってると鈍るけどね。必要以上に刺激するから
あ、私はなんでも適当に食べますよ。でもあんまり変なもの食べると「うっ。もういいわ」てなるのでそれ以上は食べないってくらい。「絶対〇〇は食べない」ってやるとなんか近づき難い雰囲気になります。
野生の動物に肥満がないように、体が敏感であれば、必要なものを要求するから、それに従えばいい。だから体を整えて、勘や感覚を敏感に保っておくことが大切、と考えます。
食べたいものを食べる、やりたいことをやる、疲れたら休む、そんな生活をしていれば、ほんとは健康法なんかいらなくて。
なかなか現代ではそういうわけにもいかないから、整体法があるわけですが、体の要求に素直になることが健康への道ということは覚えておきたいですね。
だから「野口整体」というのは、「活元運動をすること」とか「愉気をすること」「足湯をすること」「風邪を引いても薬を飲まないこと」ではなくて、それらは飽くまで方法論であって、「全生」のために、体を整える、体を整えるために色んな方法がある、ということをご理解いただければと思います。
方法論の一つを「野口整体」と思ってしまうと、それが縛りになって「全生」とは違ったものになってしまいます。
「整体やってるから〇〇しちゃいけない!」とか「毎日活元運動しなくちゃ!」と生活を縛るのは本末転倒です。
体が整ってくると、自分に必要なこと、不必要なことが自ずと分かるそうです。
知識や人から言われたことより、自分の裡の要求に従って生きることを目指しましょう。
手の感覚に任せる愉気も知識ではなく、勘を養う訓練になります。
治療ではなく体育
調子が悪くなったら「専門家に治してもらおう」と考えるのは、西洋医学にしろ、民間療法にしろ同じです。
野口晴哉先生も最初は苦しんでいる人を「治してあげたい」と思い「治療」していましたが、技術が進歩して上手になればなるほど、患者さんは先生に頼り、先生がいないと不安になったり、「先生のお陰で治った」と思うようになりました。
最初は晴哉さんご自身も治すのが面白かったそうですが、だんだん「治っているのはその人自身の力なのに、それを自覚しないと健康にはならない」と感じ、治療をやめました。
その代わり、一人ひとりが自分の体を育てる「体育」を目標にしています。
体育と整体子育て
お腹の中から人格を認め、愉気をして話しかけながら育てる。
妊婦さんの要求は赤ちゃんの要求だから最優先する。
分娩後は骨盤が自然に揃うまでは安静にする。
生まれてからも赤ちゃんの要求に合わせて動く。
子供の自然を歪めない。大人の便利や常識を押し付けない。
病気を上手に経過すると成長の促進になる。
などが整体の子育てです。体を自然に育てる体育ですね。
『誕生前後の生活』や『育児の本』に詳しいよ。
奥様の書いた『子育ての記』も面白い。
潜在意識教育
整体では「潜在意識教育」を大切にします。
お腹の中にいる赤ちゃんに愉気をするのは、元気に育つというだけでなく、お母さんや周りの人が生まれてくる前から、「人」を育てている自覚を持つことによって、赤ちゃん自身の「人格」を育てるからと考えられています。
お腹の中にいた時から愉気されて育った子は元気なだけではなく、人気が集まるそうです。
ちょっと可愛そうな例ですが、、泣いてもうるさがられて放っとかれる赤ちゃんと、その子がいるだけでみんながニコニコしちゃう赤ちゃんがいますよね。
晴哉先生によると、それが生まれ持った徳というもので、お腹にいた時に愉気された子はそういう徳が育つそうです。愉気されていつも気が集まった状態が当たり前になっていると、生まれてからもなんとなく人の気が集まりやすいんでしょうか?
私はそれが一番大切な潜在意識教育だと思っています。だって徳なんてそうそう努力で得られるものではないし、お腹にいる時が一番伸びしろというか、育ちしろ?が大きいわけですからね。
次に生まれてから13ヶ月、記憶にない3歳。
でも潜在意識教育はその後もずっと大切です。
人間は認めた方向に伸びる性質があるようです。
「馬鹿なんだから勉強しなさい!」と叱られたとして、「馬鹿なんだから」が潜在意識に入ってしまうと、自分は馬鹿なんだから、どうせ馬鹿なんだから、と思い込んで本当に馬鹿になっていきます。
叱り方褒め方は大切ですね。同様のレッテル貼りはかなりあると思います。
「〇〇ちゃんよりきれいにできたね」と言ったら〇〇ちゃんの掃除したところを汚すかもしれないけど、「きれい好きだね」と言えばきれい好きなんだから、いつでもどこでもきれい好きです。
無自覚に子供をあらぬ方向に教育して、歪めてしまうのは慎みたいものです。
どれも面白いけど、一冊読むなら『潜在意識教育』がまとまってます
まとめ
いかがでしたか?さらっと書いたのでなかなか伝わらないとは思いますが。。
目標は「全生」。
そのための「整体」。
その方法論が「活元運動」「愉気」「操法」「体操」「体癖」「潜在意識教育」 です。
知識や技術に囚われず、全生を目指しましょう!
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