そもそも「体癖とはなにか?」
体癖を知った方は、疑問に思いますよね。
私は初心者に向けては、「体癖とは野口晴哉先生の整体理論の一つで、体の特徴から、性格や体質が分かる究極の人間分析タイプ論」と紹介していたのですが、それはあくまで便宜的な説明です。
このページは、ある程度体癖がどんなものか分かった方に向けて書いているので、初めての方は下記ページからお読み下さいね。↓↓↓
しかし、そうは言いながら、正直なところ、根本的なことがよく分かっていなかったんです。
きちんと説明できている人も知らないし、読んだこともありませんでした。
上記ページを数年ぶりに読んでみたら、「体癖とは、エネルギーの流れやすい方向」って書いてますね。
今でもその通りだと思うし、意外とまともな説明してるけど、当時はぼんやりとしか判ってなかった。
「体癖とはなにか?」
答えられますか?
読み進める前に、ご自身で考えてみて下さい。
私は9種体癖ということもあり、まず意味や原理、理由が分からないと行動できないし、一体なにかも分からないものを、どう使っていいのか、どうお伝えしたらいいのかも分からず、この数年考えていたのですが、ようやく自分なりの答えが出たところで、ちょうどそれを定義している文章が手に入りました。
このページでは、便宜的な説明ではなく、「体癖とは、そもそも一体なんなのか?」を創始者の野口晴哉先生の説明を元に考えていきます。
「性格」や「体型」で分類すると思っている方がいるかもしれませんが、違います。
「何か」が分かれば、安易にタイプ論の一つとも言えません。
ではなにか?
さらに、それを知って、どう扱っていけばいいのかを考えていきます。
*先人達の数十年&私の十数年の研究成果ですから、本当は秘密にしておきたいし、誰にでもすぐに分かる簡単な内容ではありません。
本気で学びたい方以外は、これ以上、絶対に読み進めないようにお願いします。
また、読むと決めた場合も、ご自身の答えが出てからにして下さい。
体癖とは何か?
体癖を、性格分類とか、性格分析と紹介してるのを見かけますが間違いです。
初心者が分かりやすいように、また多くの人の興味を引くためにそう仰ってるのだと思いますので、マーケティングとしては分かるのですが、体癖の説明としては不適切です。
私も最初は広く普及するならマーケティングは必要だと思い、深遠な整体の世界をいかに軽薄に紹介するかということに腐心したので気持ちは分かるんですけどね。でも少し反省しています。「自業自得」と「類は友を呼ぶ」から。お陰で勉強になりましたが。
まともに勉強してれば、本当に体癖が「性格分類」とか「性格分析」と考えてるということはないと思いますが、おそらく「性格」にフォーカスして、体癖を観ていくということなのでしょう。
ただ、名前をつけると、そういうイメージ持っちゃう人もいると思うし、ちょっと残念だなと。
受け取る側は、そういったマーケティングは「方便」(便宜上の手段)だということは忘れないで下さいね。
なので、そう目くじら立てなくてもって気持ちもありますが、土台の概念自体の認識が間違ってると、観えるものが変わるし、色々狂ってくると思うんです。
例えば、困った行動を固定的な「性格」として捉えれば、相手を「イヤな性格の人」と見たり、自分は「こういう性格なんだから悪いことしてもしょうがない」と言い訳にして成長がなかったり。
あるいはそういう性格にならないように気をつけようと意識したり。
まず名前をつけた時点で、それが無意識に自分の記憶の中にあるものと結び付いて、既成概念に囚われてしまうことが第一。
第二に、「体癖とはなにか」が分かっていなければ、自分や他人の厄介に見える行動を、どのように扱っていいのか分からないということ。それを「抑える」ことが何を意味するのか、判りますか?
第三に、体癖論は、心と体、それをつなぐ気で成り立っており、一つでも抜けたものは体癖ではありません。興味のあるところから入るのはいい。しかし最終的には一つのものと観るしかない。これが「方便」と言った理由です。
例えば、バスケの指導者が、全くバスケを知らない老若男女に一からバスケを伝えたいと思った時、はじめは詳しく説明してみたけどポカンとされたから、それぞれの能力に合わせて、ある人にはボールで遊ぶ、ある人にはドリブルの練習、ある人にはシュートの練習、ある人には楽しさを伝えることから始めたのだけど、ドリブルが上手になった人が、バスケを極めたと勘違いしてしまうようなものです。
バスケはみんなでやってこそ愉しいのに、ほんとのバスケを知らずにドリブルに執着してる人(二乗)を見たら残念に思うでしょ?
「伝える」上で、相手の興味や理解力に合わせて、様々な手段・方法を用いて説明したり、学ぶのは悪いことではありません。
しかし現実問題として、心の問題と思っていたことが、体を整えることによって修正できるのが醍醐味だったりするのに、もったいないですよね。
どの体癖がどうだこうだっていうのは、語る人自身の体癖を考慮して、そういう観方(主観)もあるんだなって観察できるので、ある程度自由でいいと思うんですが、概念自体は、オリジナルに準拠してこそ観えるものがあります。それによって、体癖を十分に活かすことができるはず。
難しいからと言ったって、元々の意味を知らせずに、既成概念の延長で説明する方が可哀想でしょう。
体癖論本来の合理性を知れば、既存のいかなる理論も霞んで見える。
というわけで「体癖」がどういうものか、野口晴哉さんがなんて言ってるのかを見ていきます。
体癖を知るうえで、一番便利なのは、そういう過敏反応の方向である体癖が、体の無意識の癖とか、体の偏り疲労とか、偏り運動という無意識の動作、運動の特性で分かるということです。最近は、偏り運動習性そのものが体癖習性だというように飛躍してしまっていますが、私がみつけた体癖は過敏反応、刺激に対する反応の方向で体癖を分けてきたのです。こういう分け方は、今まで世界中どこにもなかったのです。・・・
私の見つけた体癖は、姿勢の特徴や無意動作の特徴を捕まえることでそれが分かる。外側から観察して分かるということがその特徴であり、体癖素質を運動習性で観るのです。だから、写真を見ても体癖が分かるし、動作を観ても分かる。・・・
みんなそれぞれ共通した体型を持ち、共通した動作をするのです。意識して動作しても、その意識動作の中に無為動作の動きがある。だから、それぞれの体癖に合う、対処の仕方もできれば、刺激の仕方も分かるのです。
野口晴哉『嫁と姑 下巻』
「刺激に対する過敏反応の方向」で体癖を分けたと言っています。
ちょっと難しい表現ですね。。
体を観察していて得られた感覚だと思いますが、
普段生活していても「えっそんなつもりじゃないのに、そこそんなに反応する??」とか「これに対してそっちの方向に反応するんかい!?」って傾向がはっきり表れてるので、観方ができてくると、すごくしっくりくる表現だと実感できます。
また以下は「体癖」という言葉が誕生した時の話。
「あの人、何故動けなくなったの?」と私が訊いた。
「腰椎三が捻れたのさ」
「この前も同じようなタイプの人だった?」
「そう、ああいう体が腰を抜かす」
「ああいうでは他人に説明できないわね」
「よし、誰にでも判るようにしよう」
△▽□□◯とノートに書いて体形の分類を始めた。
「格好だけで判るの?」
「いや、手がかりだ」
「じゃア、駄目ね」
「体運動の習性が体に残っている状態さ」
「体質じゃアないの?」
「違うんだ。寧ろ素質の一種だ。腰椎部の過敏反応素質とでもいえばいいだろう」
「少し、長いわネ。気づかずに過敏運動の繰り返しをやってしまうんだから癖かしら?」
「そうだ。体の癖だ。体癖素質としよう」
「体癖素質A型、B型とやったらどう?」
「いや、体癖素質は人間の感じ方の反応方向で分類して、その習性を確かめる。それを体癖素質として分類してみよう」
野口昭子『回想の野口晴哉 朴歯の下駄』
「腰椎部の過敏反応素質」「体癖素質は人間の感じ方の反応方向で分類して、その習性を確かめる」
と言っています。
腰椎は行動の中心ですが、特定の腰椎が過敏に反応するために、気づかずに過敏運動の繰り返しをやってしまうことを、偏り運動習性と呼び、その反応方向で分類したのが「体癖」ということです。
腰椎部の過敏反応が体癖を分類する基礎になりますので、体運動の構造から離れた体癖論は、ありえません。
こういった原理の解明を疎かにして、表面的な「性格」ばかりを見て体癖論を使うと、妄想が妄想を生んで解釈や方法論のみが氾濫し、理論自体の堕落を招くことは、占いや他のタイプ論の大衆化過程を見れば、容易に想像がつきます。
体癖論は様々な分野で活用できる可能性を秘めていますが、枝葉ばかり広げて根がなければ倒れますし、そもそも種となる要求が違えば何が育つか分かりませんね。
体癖論は天才・野口晴哉が人を整体に導く中で、一心に興味を傾けて見つけ、手塩にかけて育てた種である。
似て非なる種を撒く愚行は慎みたい。
「そもそも何なのか」種となる概念や定義を確認しておくというのは、そういう意味です。
ちなみに我々が「愚か」というと、馬鹿とか未熟ってイメージがありますが、法華経で「愚」というのは、先に上げたドリブルに執着してる人達(二乗)のように、修行者の中でも特に優秀で、物事の認識が不足するような方たちではなく、むしろ周りの人よりもよく理解し、世間からも大変評価されるような人。しかしその理解が多いために逆に偏った考えをし、仏の教えを探求しなくなってしまった姿を「愚か」と捉えるのだそうです。体×性格だけでは、平面的ですよね。
というわけで、
性格じゃないなら、体型や運動の癖を体癖かと思ってしまう人もいますが、それも違います。
偏り習性が、体に残っているのが体型(格好)だから、体癖を調べる手がかりにはなるけど、偏り運動習性自体や、体型そのものが体癖なわけではないということも、忘れてはいけません。
体癖とはなにか?
では結局「体癖とは何か」?
体運動の偏りそのものが体癖ではない
体癖とは何かということを明らかにしておこうと思います。今まで、体癖とは体運動の無意的偏り習性であると説いておりましたが、それは説明の便宜のためであって偏り習性そのものが体癖ではない。体癖は偏り運動以前にあるのです。・・・
体癖とは要求現象の方向である ー見えない/測れないものとしての体癖
体癖とは何かというと、そういう体運動以前にある人間の要求、その要求の現われる方向に偏りがあるということである。例えば食欲でも性欲でも、誰にでもある要求であるが、それが現われる方向にその人特有の偏りがある。・・・
養生法を人に教えると、「何時間眠ったらいいですか」と聞く人がある。養生法というとすぐ食べ物と結びつけて考えてしまう人がいる。そうかと思うと運動するつもりの人がいる。規則正しくするという「べしべからず」を守ろうと考える人がある。みな、自分の生命と結びつくもので一番体に感ずるもの、つまり自分の要求が誘導されるものに、先ず考えがいく。だから上下型の人は、養生というと眠りの足りないことと結びつけ、ゆっくり眠らなくてはならないと思う。前後型の人は、どんな運動をしたらいいだろうかと思う。三種だったら当然どんなものを食べたらいいだろうと。九種だったら、性行為を慎みますかと、すぐ慎むことだと思う。それは、そういう、要求の方向に何でも結びつけてしまうところに体癖というものがあると考えていいのではなかろうか。・・・
歩いたこともない赤ん坊にもそういう体癖傾向があるのですから、そう考えると、体癖は体運動習性だというのは本当ではない。むしろ体癖は要求の方向である。
要求のもとは何かというと、生きようとすることである。赤ん坊が出来るのでもそういう要求が起こって来て体になって来ている。
要求というのは人間の生命であり、その生命の方向に個人個人の癖がある。そう考えるべきでありまして、そういう限り、体癖というのは要求の方向にあると、或いはそういう要求を起こす頭の中の何らかの構造上の相違か、或いはものを表現しようとする神経系統に相違があるのか、兎も角要求の方向として体を見ることが本格的なのであります。
野口晴哉「見える偏り 見えない偏り」 月刊全生令和六年二月号
最近届いた整体協会の機関誌からの引用です。
驚くほど端的に言ってますね。
私が見落としてただけかもしれませんが、これほどはっきりと分かりやすく体癖を定義してる文章は見たことがなかったんです。
「みな、自分の生命と結びつくもので一番体に感ずるもの、つまり自分の要求が誘導されるものに、先ず考えがいく」
例えば健康系の発信を見ても、本人が3種なら食養生や栄養のことばっかり、本人が上下型なら「とにかく、まずは睡眠を確保しましょう」と言ってるし、前後型なら「この運動をすればこういう効果が、」と紹介してる。つまりみんな「自分の」生命と結びつくものに先ず考えがいく。
これが、過敏反応ということです。
「体癖は要求の方向である」「要求というのは人間の生命であり、その生命の方向に個人個人の癖がある」
つまり、体癖とは「要求の方向」「生命の方向」ということになります。
ここ数年「体癖とはなにか」を考えてきて、自分なりに「魂の方向」じゃないかと思ってたんですが、自分で言っといてなんですけど「魂」がなにか分からないし、生命と魂と気の違いや関係もよく分からない。
晴哉さんが体癖について話してるのをみると、執拗に「方向」と言ってることが分かります。
私も始めは臓器の働きの特性とか、病気の特性とかで体癖を分けていました。・・・
分類しているうちに、それと体量配分、体運動の偏り習性、感受性の偏り反応、それらを左右する要求の方向が、みんな一つのことになってきたので、そういうものに体癖という名前をつけ、十二種に分類したのであります。
野口晴哉『整体入門』
「体量配分、体運動の偏り習性、感受性の偏り反応、それらを左右する要求の方向」
昔は便宜的な説明かなとスルーしてました、というよりそんなに「方向」と言ってることに気付いてなかったんですよ。
てか今気付いたけど「要求の方向」って答え、初めて読んだ『整体入門』に書いてあったし!
完全に見落としてた。。
「さり気なく、呟く様に大事なことを言うのがハルチカ・スタイル」
って言ってる人がいたけどマジで!
自分に準備が整うまでは、目の前にあっても気付かない。
体癖(=要求の方向)を使って愉気する感覚が分かると「体癖とは気=生命=平衡要求を満たす方向」以外なにものでもないということが簡単に実感できます。これは、概念や便宜的な説明ではなく、そのままの意味です。単純に言えば、気の方向ですね。
最初から言ってるんだけど、なかなか解ってもらえない。
文章で見たことはないですが、口伝で気の方向による体癖の観方が伝わっていることから(私の先生の観方とは少し違うけど)、晴哉さん自身は体癖を気の方向で観ていたものと思われます。「方向方向」と言ってるのは、ただ実際に、方向を観てたっていう、単純な理由じゃないですかね。
彼は解らない人には言わない人なので。
あるいは、完璧主義ゆえに確かでない部分は書かなかったのかもしれないし、普及のために怪しさを排除したかったのかもしれません。
そういう意味では、気の方向とか魂・生命の方向と言うより、「要求の方向」と言うのが正確かつ、誰にでも実感を伴って分かりやすいので、適切と言えそうですね。
私も基本はそれに倣うことにします。
また、さらっと書いてありますが、「生命」=「要求」というのが、彼の人間観。
これが判らないと、なんのために整体法という方便を用いるのかが判らない。
そういえば彼、いつも「要求要求」とも言ってて、昔読んだ時はちょっと「ワガママ?」って思ってたんですけど、要求を生命と読み替えれば趣が変わる。
わがままに徹すること、それによってしか責任をもつことはできない。・・・
自分が今、ここで、ほんとうにやりたいことをしていること、それ以外の別の所に、自分のいのちがあるはずがない。
野口三千三『原初生命体としての人間』
野口体操の野口三千三さんも同様の人間観のようです。
同じ体にならないと、同じ心は判らない。
晴哉さんが「整体法」を体系として遺した意味。
体癖をどう観るか?
というわけで「体癖とは何か?」の答えは、体癖の観方とも言えます。
つまり、
生命の方向・気の方向・要求の方向を観るのが直接的、本質的であり、
観察すれば、それはエネルギーの平衡要求を満たす方向であることが分かる。
刺激に対する過敏反応の方向、感受性の反応方向として現れ、
さらに調べてみると、腰椎部の過敏反応素質として分類でき、
それが元になって偏り運動習性が起こっていることが観察される。
その偏り運動習性により、体量配分(重心)や体型、見た目の違いとなって表れる。
抽象的に説明するとちょっと分かりにくいですが、実際に観察していくと意味が分かるようになります。
どこを観ても、要求の方向として体癖は表れていますが、より本質的に観るほど、純粋です。
要求の方向というのは見えないし、体量配分計で測れない。ただその人のやる動作をまとめていかないと判らない。そこで要求の方向というものを引っ込めて体運動習性というものから体癖を見る手がかりにしようと考えて、体運動習性から体癖を追求していくという行き方をとっているのであります。
野口晴哉「見える偏り 見えない偏り」 月刊全生令和六年二月号
もう!引っ込めないでよ〜
みんなそれで「そもそも何なのか」分かんなくなって迷走しちゃってるじゃん!
兎も角、晴哉さんはこう言ってて、当時はおそらく体癖を科学的に研究して普及しようとしてたらしく、誰にでも理解できる体運動習性という「見える偏り」、および体量配分という数値で表される現象を対外的な研究の中心に据える上での「便宜的な説明」だったのかなと思われます。
残念ながら、科学的な研究は道半ばで途絶えているようですが、それによって得られた重心の研究成果は、気の方向の研究とも繋がりますので、追々ご紹介できればと思っています。
個人的に楽しむ分には、要求(気)の方向を観て、体癖そのものを捉えつつ、表面に表れている現象を「確かめ」ていくのが分かりやすいと思いますが、どうしても偏見や妄想が入り込む余地がありますので、
晴哉さんは、背骨を読んで、指で確かめられることを前提としていて、それが主客を超えて正確ですし、分かればさぞかし面白いだろうなと思います。
「要求の方向」を抜きにして、表面に表れた現象を見てると迷路に迷い込みます。
表面(体型、感受性、行動習性など)を見るのはいいのだけど、その裏にある方向性を捉えようとするのが大切ということ。
表面ほど、後天的なものが絡んだりして複雑になるんですよ。
気を観れば簡単に分かることが、見た目がどーだ性格がどーだと議論するから難しくなる。
そういうものは確かめであって、本質的な観方ではありません。
気を観るのが難しい人は、行動の元になってる要求の方向を観るといい。
単純に言えば「何を求めてこういう行動をしてるんだろうか」ってことです。
無意識の要求なので、本人が自覚してるとも限らないし、聞いても本当のことを言うかは分かりません。
なので平衡要求の二方向×5方向から見当をつける。
ちなみに「なにを観るか」「どう観るか」は潜在意識教育。
「体癖とはなにか」その答えによって、その人が何を観ているかが判ります。
そういうことには興味がなく、ただ使えればいいという人は便利なツール程度に観ているのかもしれません。まぁ道具も丁寧に磨き、大切に扱えば魂が宿りますから、それも一つの入口の方向だとは思いますが。
「何も解らん者共が玩具にしおって」と腹が立つこともあるけど、
まず意味が解らないと行動できない9種と、まず行動してみて行動しながら考える行動型の違いかも、と体癖を学んでいれば考え直せますね。
だから、ほんとはそれぞれでいいのだけど、自分の主張をする場合には、一息に言わないと勢いがなくなる=全力を発揮できないから、とりあえず9種的立場から話を続けます。
性格分類と言う人は、性格を観るのだろうし、体型分類と言う人は体型を観るのでしょう。
名前をつけること、定義することは、概念の牢獄ともなり、そのような観方しかできなくなる可能性を孕みます。
性格と観れば、現象が固定的なものに感じられますし、「悪い」性格を「良く」しようとしたり、体型と観れば、体型の「歪み」を直そうとすることが目的になりがち。
整体の目的は、そういうことではない。
例えば、暴れてる子がいるとして、その子を「暴れん坊な性格」と観ると、暴れん坊な性格になります。
「暴れん坊」と認められれば心置きなく暴れられていいかもしれないけど、「良い子」にしようと思って、暴れてるのを抑えようとすれば、エネルギーが余計に余って破壊衝動に走ったり、もっと抑圧してなにも出せなくなると行き場のないエネルギー(気)がつかえて病気になったり。
天心で体癖を観る
「要求の方向」と観るとどうでしょう?
どんな要求があるのかな?と好奇心が湧きます。
愉気は、気を向けること、興味を持って観ること。
「良くしてあげよう」と思うのも邪気と言われます。
雨が降ったり風が吹いたり、天気を観てるくらいの気持ちで、エネルギー集散の様子を観れば、安易にコントロールしようって気持ちはなくなりますよね。
自分の中に、「良い悪い」といった価値判断や、過去の記憶と結びついたなんらかの思い込みがあると、雨を雨と観られず、雨を止めなきゃと焦ったり、雨が振ることに腹を立てたりする。
人の気持ちだって、湿気が飽和したら結晶して雨になる過程と似たようなもんでしょう。泣いてしまえば晴れるものを、いつまでも我慢するから雲が厚くなる。エネルギーが溜まれば雷が落ちるのは自然だし、震為雷、放電するのを待ってれば、穏やかさが戻る。
天気のコントロールはできませんが、
興味を持って観察した人たちは、周期性があることに気付いて暦を作り、雨が降りそうな時期に雨乞いすると、雨が降った。周期を知らない人たちには魔法に見えた。
野口晴哉さんは、何もせずに経過を観るのが最上と言いました。周期を読んで愉気することで、どんな病気でも魔法のように治して見えた。
嵐を止める魔法を求める人は多い。
有漏路より無漏路に帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け
一休宗純
それはさておき
「要求の方向」を観るということ、
まずエネルギーが余ってるのか足りてないのかの二方向、つまり過剰なエネルギーを発散したくて暴れてるのか、抗議したいことや認めてもらいたいものがあるなど、気を引きたくて暴れてるのかという問題。
さらに、その表現の方向を観る。
余ってる場合、思考が止まらないのか、感情が溢れてるのか、闘争心が燃えてるのか、性欲が余ってるのか、運動が足りてないのか、
求めてるならば、どういう方向で認められたいのか。
観察してるとなんとなく感じるものです。それにパターンがあるということ。
本人のやりやすいようにエネルギーの集散をしてると観れば、まぁそういうもんかな、と気楽に見てられるし、変えようとか止めようというより、要求とそれに応じた行動がスムーズに出るように生活しようって気持ちになりますよね。
体癖を活かして愉気する
生き物は、要求が満たされることに快がある。
体癖の要求の方向=気の方向に合わせて愉気をすると、感応しやすくなります。
つかえた処は、普通に愉気してもなかなか気が通らないのですが、体癖の方向のみ、楽に通ります。
これは、例えば4種の人が落ち込んでいたら、4種の方向でないと満たされない現象と同じです。
いくら2種のように「偉いね」と褒められても「うーん。。」と思ってしまうけど、「辛かったね」と気持ちに共感されれば心を開く。
念の為言っておきますが、愉気として方向を合わせるというのは、言葉ヅラを意識的に合わせたりすることではありません。
便宜的に、「こういう言葉を使うといい」とか「こうするといい」といったことは言いますが、飽くまで方便であって、
長期的な関係において、How toのテクニックのような使い方を続けていると、最初は器用な人に見えるかもしれませんが、取ってつけたような違和感があったり、懐柔される意図やコントロールを感じたりして、信頼を失います。
繋がって一体になった上で合わせる。
というか、自然と合ってくる。
これが愉気をやってないと伝わりにくい。
だから最初から、体癖を学びたい人は愉気を練習して下さいと言っている。
相手が自分と一体ならば、非道いことはできないでしょ?
自分の要求を大切にできない人は、他人の要求も大切にできない。
だから活元運動をやって下さいと言っている。
生命を大切にしない人に使われるのが嫌なのです。
生命よりも商売や名声を優先する者は、野口晴哉を語るなと言いたい。
(生命を大切にする保身は良い。)
整体操法を行うということは、食べる為の職業であってはなりません。整体操法は人間相互の愛情と誠意の現れであって、利害得失によって行われるものであってはならないのであります。・・・世相がどのように乱れましても、医術ということが営利の為に行われることがあったとしても、整体操法を行う同志の人達は、医は仁術という古諺をすててはなりません。三度のめしを二度にへらしても、腹一パイ食べる為にこの道をそれてはなりません。・・・一人の信念は万人の行動のもとです。この世の中が乱れれば乱れる程、吾々は自分の信念に生き、人の信頼に生くる欣びを知って整体操法を行ってゆきたいものであります。
野口晴哉 「整体操法の提唱」
体癖も、お互い、愛情と誠意を持って、活用したいですね。
初対面やギクシャクした時も、相手の方向に合わせて聞いていると、気持ちよく喋ってくれるというのも、相手の発散方向に合わせて愉気すればつかえていた気が流れ出す現象と同じ。
どの現象を観ても、同じ原理が働いているということ。
ゆえに、「観方」が重要。
ただ魂をぶつけるような愉気は方向など気にしなくても感応するんですよね。
潜んでる勢いを揺さぶり起こすのが本物。
愉気は「障子越しの陽の光のように」と言われるけど、気合いというのはそういうじんわりした快さではなくて、衝撃が突き抜ける快感。
”魂の感応” 自分ではそういうつもりでやっております。自分の全部を叩きつけるようにして愉気をします。指先だけでの誤魔化しはしません。だからその人の全部が動き出してくる。そうでなければ愉気というものではないと、私は思っております。手から出る気を伝えて行くとか、その気で傷口を治すとか、そういうのは、生理的な気かも知れません。けれどももっと直接に、その人の魂に自分の魂をぶっつけて、そしてゆすぶり起こして行くことが、愉気ということの本式のやり方ではないかと思うのです。
野口晴哉『愉気法』愉気の本質ー魂の感応ー
龍を画いて瞳を入れることを、画竜点睛というのだそうだが、整体指導ということにおいては、まず瞳を入れ、その瞳の勢いでそれを龍ならしむるのである。
このことを忘れて生き物を整体にすることはできない。
野口晴哉 月刊全生令和元年十月号
体癖に良し悪しはない
体癖そのものは、単なる方向・ベクトルの違いです。
もしそこに、善悪や優劣の差を感じるとしたら、発信者、または自分の主観でくっつけた価値判断や妄想ということ。
もちろん、それぞれの主観によって、どう観えるかは変わるし、
具体的な現象をみると、その場に合う合わない、加減によって好ましい好ましくない出方というのはありますが、方向自体はただの方向です。
理性的も行き過ぎると冷淡。
温かいのも行き過ぎると感情的。
頼もしいのも行き過ぎると暴力的。
集中力も行き過ぎると執念深い。
合理的も行き過ぎるとケチ。
長所短所は同じ方向性。
現象をみるのは面白いんですが、削ぎ落としてシンプルに方向を観るという原則は常に持っていなければ、ブレます。
ちなみに奇数・偶数の違いも、奇数体癖は強くてイイ、偶数体癖は弱いのでイヤ、と考えがちですが、奇数は緊りやすく、偶数は弛みやすい、という緊張と弛緩の話ですから、どちらが良い悪いということではありません。緊まりがあるから弛みがあるわけで、陰陽が一如と同様に、波の話であって、二項対立の話ではありません。
緊まれる、弛める、というのはどちらも大切で、奇数体癖が緊れなくなる、偶数体癖が弛めなくなると本来の力が発揮できず、勢いがなくなった状態と観ます。
例えば、5種が前のめりにひたすら動き続けて、寝てもある一部の緊張が休まらない状態=偏り疲労が続いて限度まで行くと、腰痛で動けなくなったりします。
なので、もともと野口整体で行っている体癖の活かし方としては、そういう体の偏り疲労、および潜在意識の偏りを調整して、その人本来の勢いが戻るように導くことであって、
性格云々で分類して「理解」に留まるようななものではありません。
要求の方向という個性は確かにあるし、分類もできるのだけど、現実の人間と向き合う時には、「◯種」にくっついた妄想ではなく、その人自身を観なければなりません。
体癖の概念はただの方向ですが、
大事なことは、
体癖を超えたところにある気はしてるけど、
考えても、
よく分からない。
魂のある人間の方が魂のない人間よりしっかり生きることができることだけは確かである。それ故、魂のない人間があったら魂を持たせなくてはならない。魂のある人はそう行動すべきだが、魂のない人は自ら持つように心掛けなくてはいけない。魂というものは認めればある。認めるまではあってもない。
野口晴哉「魂はあるか」月刊全生令和元年七月号
魂というのはあまり実感がないけど、「気」も同じで、認めればある。
あるつもりで、観る。
なんとなくですけど、上下型が毀誉褒貶、左右型が好き嫌い、ねじれ型が勝ち負け、開閉型が愛憎、前後型が損得、つまり体癖を超えたなにかに衝き動かされて行動する時、「魂」をみる思いがする。
よくある勘違い
情報が氾濫して、なにが正しいのか分からなくなることがありますよね?
体癖論は未完成なので「正しい」ことは分かりませんが、オリジナルを知っておくことは軸になります。
情報も自分で判断ができるように、感覚を磨いていきましょう。
プロなら体癖が観れる?
プロや専門家なら体癖が分かっている、観れると思うかもしれませんが、そんなことはありません。
体癖を発信したり、ウリにしていても、また野口整体の先生でも、どの程度体癖が分かっているのかはマチマチだということは、覚えておきましょう。有名だったり人気だったり高額だったりということと、信憑性とは別問題です。
一つの指標としては、野口整体には、背骨を中心とした体を指で読む技術が伝わっていて、それを習得したプロが「整体指導者」と呼ばれる人たちです。口は嘘をつきますが、体は嘘をつきませんので、指で確かめたことだけが信用に足ると言われます。
しかし整体指導者でも、体癖は運用が難しくて使わない先生が多いですし、活用している方はほとんどいないのが現状のようです。
本来の体癖は整体の状態でなければ分かりにくいので、整体指導を行いながら数ヶ月単位で確かめていくのが本式です。体癖を活用されている先生でも、初回の個人指導で本来の体癖を特定するのは難しいし、そもそも体癖を観れる方はまずいないはずなので、そういう目的でご指導を受けるのは、ご迷惑かと思います。
さらに、野口整体の中にも数系統の観方があり、別の観方をすると、別の結果になることもありえそうで、その関連は今後の研究課題です。
最近は体癖診断のサービスも出てきているようですが、どれほどの理解と精度で診断できているのかは甚だ疑問です。
例えばチェック方法として、運動の偏り等が利用される場合がありますが、それは単純にその時の偏りであって、本来の体癖かは分かりません。
一時的な偏りを、生命の方向としての、本来の体癖と勘違いして、間違った診断をすると、間違った方向へ誘導することになり、生命を損ないかねません。だから整体指導者は安易に体癖を伝えないのです。
私も「体癖診断」をやってますが、間違うこともあります。そろそろやめようかなとも思ってますが、個人的には診断が目的というより、一緒に体癖を研究してくれる仲間を募ってる感覚です。料金は、冷やかし防止とお互いの時間に対する礼であり、技術料ではありません。技術に値段はつけられない。受けて下さった方で、しっくりこない場合は何度でも見直してますので、いつでもご連絡下さい。分かりやすい方は、すぐに分かりますが、分かりにくい方は、活元運動等を行なうと素直に体癖が出るようになってきます。
当然ですが、チェックリストや簡易診断等で、正確な診断はできませんし、このブログで挙げてる有名人の体癖も後で見直すと間違っていることがよくあるので、参考程度でお願いします。
やはり自分で観方を身に着けて確かめるのが一番です。
同じ観方をすれば、誰が観ても同じ結果になるはずで、そこを目指してやっていきたいですね。
体癖と十二種体型
「体癖」と似たものに、均整法の「十二種体型」というのがあって、ごっちゃにしてる人が見受けられます。類似点も多く参考にはなりますが、概念としては異なります。
晴哉さんは体型等が体癖と勘違いした弟子は破門してたって話もありますので、混同しませんように。(十二種体型への批判ではありません。単に別概念という意味です)
また整体を姿勢を正すことと解釈してた弟子も破門したそうです。
体癖は変わる?変わらない?
体癖は変わる/変わらない、ことについて質問を受けることがありますが、これも体癖をどう観るかによって変わります。体型や見た目、運動習性、性格等で表現された体癖はその時々によって変わって見えることがあり、背骨の焦点や気の方向も一時的に変わります。
この体癖が変わるように見える現象について、整体協会ではたしか、その時の「体勢」と呼んで、本来の素質としての「体癖」とは区別していたはずです。
使い方や、季節、成長、環境等により、体癖が変わって見えることは、観察していれば気付くことですが、それは一時的なものであって、本来の体癖は「意識以前のもの」「素質」「歩いたこともない赤ん坊にもそういう体癖傾向がある」「生命の方向に個人個人の癖がある」と言ってるように、晴哉さんは変わらないと考えていたようです。表面的な体癖は変わって見えますが、生命の方向としての本来の体癖は変わらないと私も考えています。
質問 環境によって体癖は変わるでしょうか。
環境によって表現様式は変わりますが、体癖として体にくっついている感覚は意識以前のものですから、体癖的な感受性そのものは変わりません。ただ変わるように見える時期があります。
野口晴哉「見える偏り 見えない偏り」 月刊全生令和六年二月号
言葉の選び方には意味がある
ちなみに晴哉さんは、俗に言う性格的なことを、わざわざ「感受性」と言っています。私も初心者に分かりやすいように「性格」という言葉を使うこともあり反省していますが、やはり正確には「感受性」ですね。
彼は完璧主義の9種ですから、言葉を相当正確に選んで使っています。そんな彼が「体癖という言葉は随分考えた」と言ってるくらいですので、私には安易に歪めることはできません。当て字の造語も見かけますが、一事は万事とすると、名前を歪めるならば理論も歪められている可能性が高い。
「盗む」と「継ぐ」の違い
なにかを学ぶのに必要なのは、好奇心と敬意です。
I don’t care that they stole my idea…
I care that they don’t have any of their own.
Nikola Tesla
少なくとも自分の裡からの言葉になるまでは、ルーツやソースは明らかにするのが誠実でしょうね。
そういうことは言って解る人には、言わなくても解るだろうし、
「魂を大切に」としか、、
でもまぁ、気の毒なので、一応説明を試みてみましょうか。。
今のお話の中で、死んだら霊が離れるとあったのですが、霊が離れるから死ぬんですよ。死ぬ方が後なんです。だから生きながらでも悪いことを考えたり、自分の本当の要求に背くようなことをやる時は、自分の霊を殺しているのですよ。自分の寿命を削っていることなんです。十年生きたというのは、十年死んできたということ、一週間生きたというのは一週間死んだんですよ。今生きているというのは今死んでいるんですよ。刻々死んでいる、その死んでいるということを生かして刻々生きていくということが人間の生きることだと思うのです。魂を失わないように、魂の要求に背かないように生きることが大切だと思うのです。
だから死んだら霊がなくなると考えないで、霊がなくなると死ぬと考えるならば、魂の要求を壊すほど、死に急ぐことになりますね。どうぞ、どっちがいいかお決め下さい。
野口晴哉「質疑応答 ー活元茶話会にてー」月刊全生令和四年七月号
忘れてたけど、この文章みて体癖を「魂の方向」って思ったのかも?
体癖も死ぬ「前に」抜けていくから。
本来の体癖が出ない時も、魂が迷子になってる感じがするし。
色々辻褄合うんだよなー
それはともかく、世の中は等価交換が原則。
他人の死んできた時間で創ったものを盗むというのは、自分の魂を売るということ。
他人が時間×エネルギー、つまり命を使って得たお金や財産を盗んだ時も、
いくら罰せられたり、他から非難されたところで、自分で気付かなければやめられない。
でも裡の要求に背くと、
「息が詰まる」「違和感」「不愉快」「不快」「疲れ」「痛み」「不調」「病気」といった形で、罰が当たって気付けます。
早めに気付ければ、対応がしやすいですね。
整体が鈍さを嫌い、敏感な体を保つことを推奨する理由です。
そして、体癖を整体とともにでないと伝えたくない理由。
意地悪してるんじゃないんですよ、整体(整った体)であれば、自分の要求も相手の要求も無視して行動が「できない」、つまり悪用ができないし、やってしまってもすぐに気付いて戻れる。
魂が繋がらずに上澄みを掬うというのは、盗むということです。
盗んだものは、汚れる(気枯れる)。
池の水も、水源と繋がらなければ干上がるか、淀んで沼になるでしょ?
体も同じ。途中に石があって堰き止められてる処があれば、流れが淀む。その石を砕いて流れを回復させるのが整体操法、源流と繋いで、流れる水で石が溶けるのを待つのが愉気、川の形を整えて流れやすいようにするのが整体体操。実際にはそれぞれ分離した技術ではないけど、便宜的にはそんなイメージ。
いずれにせよ、
源流とつなぎ、滞ることなくスムーズに流れるよう導くこと。
あとは、意識せずに自然の流れに任せる=忘れる。
言葉やアイデアも同じ。頭で理解していてるつもりでも、肚に落ちて実感がないと、言葉が宙に浮く。それは外から入れたアイデア、言葉であって、裡から湧いたものとは言えません。
テスラが心配してるように、盗んでばかりいると、自分のものが何もなくなる。
自分の魂の声が聴こえなくなってくるんですよね。
直観が働かなくなると言い換えられるかもしれません。
興味を持って考えてれば、いつかふと分かるし、いくら考えても応えがない時は、活元運動でもして寝れば目が覚めた時には、なにか浮かぶ。
これもじーっと考え抜いて、あとはポカンとして「忘れる」ことが大切。なぜなら、意識が忘れると無意識がやってくれるから。忘れられないことを「執着」と言います。執着してる間は叶わない。
良いと思って紹介するのは悪いことではないけど、まだ自分の裡から出たものでなければ、ソース(源流)と繋いでおかないと、汚れます。もしそれによって、お金や名声を得たり、承認欲求、自己顕示欲が一時的に満たされたとしても、
魂に見合わないものは、すぐに離れるし、身につかない。
宝くじやギャンブルで得た金は溶けやすいし、幸運や他力で得たものを、自力と驕れば縁も運も絶たれます。
先祖・先人の遺産を放蕩してしまうのは、それが為された過程=命に敬意も感謝もなく、大切にできないため。
遺産というと、財産や知恵が連想されますが、体や生命自体もそうかもしれません。
いつも意識してるのは「縛り」になりますが、「どういう気持ちになるか」たまにちょっと気を向けること。
魂が繋がっているかどうかが、
「盗む」と「継ぐ」の違いかな、と思います。
また盗まれた相手が不快にならないならば、それは盗んだとは言いません。
なぜなら、相手の要求(気持ち)が分かる=繋がってるということだから。
なぜ自分の魂の要求を大切にすることが、相手の魂も大切にすることになるかというと、
魂は意識以前のもの、元々繋がっているから。
繋がっていれば、等価交換は必ずしも、相手と自分で完結しなくてもいい。
愉気も「自分の」気を与えていれば、すぐに底をつくが、繋げて道を通すならば、単純な二物間のエネルギー保存則ではなくなる。
繋ぎ、あとは忘れる。
体癖というのは、自分や他者の魂へ繋がる入口の方向であり、「私の」性格やら「あの人の」体型などと分類しているうちは、「この」コリが「あの」病気が、「私が」やった「あの人が」やらなかった、という意識と同じなのです。
その意識を離れて、渾然一体、万物斉同、一つにまとまって全力を発揮できる整体に導く入口が体癖。
、、と大仰な言い方になりましたが、
テキトーな思いつきですので、悪しからず。
でも「オリジナルを読め」「体癖だけ摘むな」と言ってるのは、言語化してみたら、そんなような訳かなと。
体癖については、私も含めてみんなテキトーなこと言ってますが、未完成なのでしょうがない面もあるんですよ。
だから観方を身に着けて、確かめていきましょうということ。
見方を学びなさい。あらゆるものは他のあらゆるものと繋がっている。
Leonardo da Vinci
体癖は沼と言いますが、沼と感じる人は泥に足を突っ込んでる証拠です。沼などではない。
浅瀬でバチャバチャやってても水が濁るだけ。
大海に、沈めば沈むほど、クリアになる感覚がなければ間違いです。
野口晴哉先生と、それを継いできた方々の尽力もさることながら、「体癖とは何か」が観えれば、自ずとどう向き合えばよいかが分かるはずです。
体癖による反応方向の違い
と、軽ーく批判してみましたが、
あなたはどう感じましたか?
だいぶ角を取ったので、それほど9種感はないかもしれませんが、
もし緊まる感覚があったならば、9種に同調したということ。
客観的に受け取ったならば、
開閉なら、言いたいことは勘で感じるし、ねじれは自分のサポートしてることが批判されてれば喧嘩を売られたと思って批判的に見るけど、味方だと思えば応援したくなる。
前後は合理的かどうかは結果で見るので言葉は信用しないが、上下は正しいかどうかは知識や論理で考える。左右は議論自体はよく解らなくても好きな人の言ってることに感動する。
など、同じことを読んでも(刺激)、パッと反応する方向が違うって感覚分かるかな?
*理性が戻った時にする思考は、後天的な教養が含まれるので、体感的に反応したことを観ること。
まぁ正直首をひねることもありますけど、9種の苦手な広く伝えるってことをやって下さってると思えば、ありがたいですよ。皆さん良かれと思ってやってるのだし、お互い得意なことを頑張っていきたいですね!
ってのが、理性が戻った時にする後天的な教養を含んだ思考、所謂建前というものです♡
体癖は変わるか?
前述しましたが、体癖が一時的に変わることはあるけど、本来の体癖は変わることがないと晴哉さんは考えていたようで、私も同感です。
体癖が自然に変わるのは、まず季節の変化によって。立春から春分は奇数・開型に、立秋から秋分は偶数・閉型になります。また妊婦さんは、だれでも10種7種になります。これらは私の先生の説ですが、私も確認しています。気の方向や背骨の焦点、感受性が変わります。
ある時期の成長、例えば運動系が発達する時は5種的になるとか、消化器が発達する時期は3種的になるとか、これも自然な変化で感受性が変わってるように見えますが、背骨の焦点や気が変わってるかどうかは、確かめたことがありません。
ともかく、体癖は一時的に変わるというのは、当たり前の現象ですから、変わる/変わらないという話をする際に、何を観てるか、どう観てるか、が違うと話になりません。
それから経験があるのは、強い薬品によって変わります。影響が強い時は全身の気が変わりますが、だんだん抜けてくると、疲れた時に、負担がかかってる部分?溜まりやすい部分?のみになって、時とともに影響が抜けていきます。
また最近気付いたのは、怒られたりしてグサッと刺さったと感じる時、刺さった処(私の場合、鳩尾〜胸が多い)が相手の体癖になってるけど、それに愉気して本来の自分の体癖に戻ると、我に返ります。愉気していて、相手の気持ちをなんとなく感じると、体癖の部分的なズレによって起こっていた違和感も消えたりします。たぶんそのまま抑圧すると、心にはわだかまりが残り、体には硬結ができて、気はつかえるんだと思います。直接言おうが言うまいが、肚落ちして自分が「悪かったな」と思った瞬間に、相手も気がすんで、声を掛けてきたりする。こういうのを「気の感応」と呼びます。「刺さる」ってほんとに刺さるし、「我に返る」ってほんとに我に返るんだなーと納得。「念」というのは凝縮した気の塊ってイメージ。鳩尾じゃなくて、最初から肚で受け止められるようになると流せるんだけど。。むしろ肚が繋がってなくて相手の身になれないから怒られるわけで、肚ができてると怒られにくいし環境(周りの波)に振りまわさないと思う。
褒めるのは的を射て、叱るのは3度外して、と言われるのは、完全に急処に入っちゃうと、時間が経っても解消できない傷、所謂「打撲」状態になって沈んでしまうからかな?
打撲というのは、そこだけ波が止まってつかえてる状態?
冷えると体がねじれて重心や腰椎の焦点が変わり、ねじれっぽい感受性になるとか、食べ過ぎると一時的に左右型っぽくなる、頭を使いすぎると焦点が腰椎1番から下がらなくなる、なども普通に起こります。これらは放っておいても、普通は寝れば弛んで元に戻るし、そういう生活が続いて偏り疲労が溜まっても、風邪を引くとか病気を全うすれば、調整されて戻ります。
しかし、絶え間なく自己教育したりすると、別の型にはまったように、自分の本来の体癖(要求の方向)が萎縮してしまうことがあります。こうなると、全く調子が出なくて面白くないし、力が発揮できなくなります。「自分じゃないような感覚」がある時は、要注意。
普段抑圧されていると、エネルギーの集散が滞り、運動系や内蔵の働きもスムーズでなくなるので、まとめて爆発するような出方になります。
教養が体癖構成にフィードバックすることがありますか。
これも環境によって感受性がかわるだろうかという問題の一つと考えますが、これも私は否定的で、ただ教養を積むことによって表現の様式が変わってくるということはありますが、体癖そのものは教養によって変わることはありません。けれども教養という意識的な体の動作が体全体の動きに影響している時期があります。・・・
本来の体癖と違う生活様式をとったり、教養で自分の感受性の方向を変えて行ったりし過ぎると体が壊れて来、体の全力を発揮するわけには行かなくなる。自分では全力のつもりでもどこか萎縮しており、全力を発揮するわけには行かない。もし人間が全部の力を発揮して生きるということを理想とするならば、つまり全生を理想にするならば、自分の本来の体癖に合うような生活をすることが好ましいのではないだろうか。
仮りに教養が体癖の中に混じって出るとしても、それは着物のようなもので表面的に着飾ったものに過ぎない。体癖そのものにはなり切らない。意識以前の体癖的な感受性とは全く相違したものが出来るだけで、そういう行動で五十年続くことはあっても、いや生涯続いたとしても、それはその人の全生ではない。絶え間ない不満足、我慢、克己、自制というもので出来た第二の後天的なものであります。その後天的なものも、何か事が起こってちょっと揺す振られると、本来のものがサッと出てしまう。・・・
どんなに気取って第二の天性に化していたとしても、咄嗟の時には出てくる。咄嗟の時に出てくるとか、自分一人の時にでてくるとかいうことで二重人格的な生き方をするのは、生きるエネルギーのロスであります。
やはりその人の体の構造に合った生活様式をつくっていくことが純粋だろうと思うし、そうすれば咄嗟の時も普段も同じに暮らせる。そうして普段暮らすために余分にくたびれることがない。ところが自分本来の感受性以外の生活様式では、全力発揮出来ない上に絶えずくたびれる。
従って私のみてきた範囲では、御質問に対しては否定的で、教養が体癖構成にフィードバックすることはありませんし、環境によって感受性が変わるということもありません。
野口晴哉「見える偏り 見えない偏り」 月刊全生令和六年二月号
ここに載ってたエピソードを要約すると、
もともと7種のガキ大将だった人が、哲学の先生になって、ヘーゲルがこう言った、カントがこう言ったというように、他人の考えたことを取り次ぐような2種的なことばかりやっていたら、 ”哲学みたいなものに興味をもってしまったばかりに自分の要求を全部殺してしまい、人の考えの通り頭の中を牛耳られて、二種的傾向を呈するようになり、それが体に無理なために絶えず病気をやり、体力も全部発揮出来ないで、奥さんだけ強くなってしまった。”
とのことで、私もこれは経験があり、よく9種が陥っているのを見かけるので「9種の2種化現象」と呼んでいたのですが、この例では7種が出てきてますので、どの体癖でも、現代日本の風潮の中では2種化しやすいものと思われます。2種の急処である胸鎖乳突筋がガチガチになってくるのが特徴です。
「ルールを守る」「権威が正しい」「秩序は守るべき」というような感性は日本ではわりと当たり前のことと考えられていますが、例えばインドなどは特にルールを守る気はないし、秩序もありません。権威が金で動いてることは知ってても罰せられるのが嫌なので仕方ない場合のみ従う、という感じで、「日本は2種的同調圧力が息苦しくて、、」なんて言ってる人でも「ふざけんなよ、ルールを守れ!」「順番を当たり前に抜かすな!高速道路で逆走するな!秩序を守れ!!」「警官が賄賂を要求するな!マフィアかよ!?」と逆上すること請け合いですので、自分に染み付いている2種文化の深さを感じます。社会の一員って自覚が皆無、無邪気に無茶苦茶なのが怖いんだよ。なので日本の安心安全な秩序はぜひ守りたいところですが、とはいえ行き過ぎた2種的道徳に縛られることで2種化して心身を壊している人はとても多いと感じます。そういう人はインドに来ると「他人など一切慮る必要はない。俺は、何をやってもいい。」という感覚が嫌でも養われるのでオススメです!!
ちなみに、喧嘩の作法は体癖によってかなり異なり、インドの7種文化圏だと、とりあえず大声でまくし立てるのが基本になっています。下手に出れば負け。腰など低くしようものなら舐められる。厄介になってくれば「オウオウこちとらここのオーナーと友達でなぁ、さて君、名前は?」って切り札出せば勝ち確定。(まだ言ったことはない)
イギリスは1種文化圏なので、まずはにこやかに皮肉の応酬をやる。感情を露わにすると鼻で笑われる。折れないと分かれば「〇〇して下さい、さもなくば法的措置を取らせていただきます」で一発。(何度か言った)
これが分かるまでほんとに苦労しました。
自分の方向(常識)からいくら説得しても無駄無駄無駄ァ!!!
喧嘩のように、要求と要求のぶつかり合いの際には、体癖が色濃く出ます。
特定の文化の中では、その方向性で上回らなければ勝てない(損害を被る)から、合わせざるを得ない。
ほんとは晴哉さんみたいに「気合い」でなんとかできたらいいんですけどねー
そんな胆力はないので、力技で闘うしかないこともあって、そういう場合に体癖を知ってると便利ではあります。
まさに「彼を知り己を知れば百戦殆からず(孫子)」
しかし、こういう使い方は悪用ですから、護身に留めること。
脱線しました。
7種が引っ込んで2種的になった先生の話、
”哲学をやり出した後で駄々っ子が引込んで、頑強な自分の性癖が是正されたというように言っておられたが、是正されたのではなくて、もう一つ歪めて萎縮し出したのだということが判りました。”
そこで本来の傾向、7種が素直に出るような調整をしたら、風邪はすぐに抜けるし、明るくなってよく笑うようになり、元気になっていつの間にか自分でも活き活きとして何かやり出そうという気力が起こってきたとのことです。
自分の本来の体癖が出ていない状態というのは、ハタから見ると良い人そうに見えたりしますが、本人は全く楽しくなくて、いつもしんどい状態になります。女の子の集団では「3種化現象」で苦しんでる方も多いかもしれません。身近な人の体癖はうつりやすいし、職業や環境でそうなることもあります。押し付けや我慢、無理な努力で心身の調子がおかしくなってる場合は注意してみて下さい。
まず本来の体癖が素直に出る状態に戻ることが第一。
本来の体癖が出ないというのは、自分の要求=魂を殺している、生きていても死んでいる状態ということ。
整体が「命に対する礼」という意味。
私は昔、体癖というのは体の運動特性であって、その運動様式を整体体操で変えていけば或る程度変え得るというので、体癖修正というのを看板にかかげてスタートしたのであります。ところがやっていきますと、体癖を活かすことや活用することは出来るとしても、根本的に修正するということはむつかしい。体癖的な偏り疲労の調整は出来るけれども、体癖そのものを変えてしまうということは困難である、ということが判りましたし、そもそも体癖とは運動特性だとばかり思っておりましたら、実は違う。・・・
偏り運動の習性が体癖だということは間違っていて、体癖がそういう偏り運動習性をつくり出すのだということになる。
そうすると反応の偏り現象、感受性の歪みが体癖の基ではないだろうか、あるいは感受性のもっと前になるもの、種子の中にあるー赤い花が咲くか、青い花が咲くかーというようなものが、体癖ではないだろうかと考えるのであります。
野口晴哉「見える偏り 見えない偏り」 月刊全生令和六年二月号
何を体癖と観るか、の話ですね。
要求があって種になり、それに適うように過敏反応が起こって必要なものを集めながら育ってくるのが生命の自然。
要求が素直に出れば、行動もスムーズですよね。
お腹の中から愉気を受けた赤ちゃんは、要求が素直で分かりやすいので育てやすいと言われます。
他人の体癖=要求の方向を観るというのは、泣いてる赤ちゃんが何を求めてるか、を感じる感覚に近いかもしれません。
大人は本当の要求を隠すからタチが悪いけど、言ってる言葉の表面ではなく、なんとなく感じることがピタッと当たると訴えが止まる。
つい自分の都合よく観てしまったりするんですけどねー
整体というのは、分かりやすい赤ちゃんのように、本来の体癖(要求の方向)がはっきりと表れて、それに即した行動がスムーズにできる状態を言い、そのように導くことを整体指導と呼んでいます。
逆に、自分の裡の要求を抑えることばかりやってると、自分でも自分の要求が判らなくなってきて、本来の要求とは離れたものを、頭で求めて行動しても、体の要求とは違うので満たされないということが起こります。
裡の要求というのは、自然と湧いてくるもの、イメージすると深く息ができること、体が快いこと。
特に理由はないけど、ただそうしてると愉しい、というのが要求と行動が一致してる時かなと思います。
体癖を学ぶ理由
体癖を学ぶ理由も、それぞれだと思います。
上下型は知識として、左右型は楽しみとして、前後型は便利に、開閉型は納得のため、というように動機にも方向性があるように思いますがどうでしょう?
ねじれ型は「そんなもので人を差別するな!」とか言いがち。そういう人に限って、他の人の感受性は自分と違うということが判らなくて、自分の方向をゴリ押ししてきたり笑 あなたの方向が全てじゃないのよと言いたいが、腰がねじれてたら無理もない。
まぁ体癖を学ぶのは、体癖関係なく「面白い」というのが純粋な理由だと思うんですけどね。
〇〇のために、というのは後付の理由で、好奇心が一番。
でも、その好奇心がどの方向で刺激されるのかに、体癖が現われるということ。
「これは使えそう」と思って興味を持つのか、「なるほど」と納得できればうれしいのかって話。
体癖の研究は誠に面白いのです。私は昔、気が短くて、意地が悪くて、操法の途中で失礼と言って飛び出して、花見に行ったりとか、やりかけて「もう帰りなさい」と言って止めてしまうとか、「今日はこれまで」と言ってさっと引き上げてしまうようなことはざらだったのです。だから昔の人が来ると、近頃の先生は練れてきたと言う。少しも練れてはいないのです。昔と少しも変わらないのです。けれども体癖を知ってから、”あの人がこういうことをするのは体癖だから無理はない”、”あの人が口を開けて笑っても、あれは三種だから、或いは五種だからだ”と思うようになった。他の人が口を開けて笑っているのに、口を結んで笑っている、開閉型だとすぐ分かる。だから唐突に笑われても、脹れられても、無理がないと思うようになったのです。あの人は行儀が悪いというが、体癖から観れば自然で、ただ或る部分の偏り疲労の調節をしているだけだ、あの人は気取っているが、上下型から気取りを抜いたら何にも残らないと解ってくれば、腹が立たないのです。それを練れて、鷹揚になったと言われるのですが、そうではなく、それだけ体癖が面白くて人を丁寧に観るようになってきただけなのです。今でも嫌なことがあれば、もう損も得も忘れて動作します。私は九種ですから、命がけで全てを毀してもやります。しかし、人間のやることにだんだん理解が行き届くようになると、あまり腹が立たなくなったばかりか、面白くなったのです。
野口晴哉『嫁と姑 下巻』
私も若い頃は納得行かないことに対して「なぜ解らない?」「なぜ伝わらない?」「なぜあの人はいつもああなんだ!?」と腹を立てて、自分の方向からクドクド説明して(これを今はブログでやって発散している)平行線の喧嘩をやって消耗したりしてましたが、体癖を知ってからは、「2種が教育ママみたいに問い詰めてくるけど、とりあえず自信満々に答えとこう」とか「まーた7種が悪態ついてくるから、一緒になって叫んどくか」といった具合に、自分にとって意味不明な相手の言動や行動が理解できるようになって、腹が立ちにくくなったばかりか、面白くなりました。
それで最近は、嗜みがよく見えるのか「上下型ですか?」とか、寛容に見えるのか「10種では?」なんて言われることもありますが、とんでもない。
私は九種ですから、命がけで全てを毀してもやります。
と言いたいところですが、まだそこまでの覚悟はないかなー。
9種の感受性 ー種族保存欲求の方向
9種が「仲良く」なんて言うのは、ねじれが「勝ち負け抜きにして」とか、5種が「損得考えずに」って言うのと一緒で、できないからわざわざ言ってるんですよ。
愛憎が激しいので、誰とでも仲良くなどできない。
外には興味がないけど、種族保存に関しては徹底的にやるので、
晴哉さんなんか、お弟子さんが座布団5枚重ねた上から縫い針がどこにあって、どっちの方向向いてるか百発百中当てられるようになるまでは、プロとして独立を認めなかったとかなんとか。
ほんとに!?
今はそういう訓練は寿命を縮めるからか、あまりやらないのかもしれませんが、、
一枚でも全く分かりませんでした。
お弟子さんには厳しいけど、会員さんには優しかったみたい。
私の先生もそうだったから、怖くて弟子にして下さいって言えなかった。
叱るも褒めるも気を向け、エネルギーを与えるという意味では同じこと。
見込みがなくても批判してあげる優しいねじれ型と違って、9種にはできない。
ねじれ型というのは、喧嘩や批判をやり合うこと自体が発散とか愛情表現になっていて、9種の毒舌もそのフシはあるんですが、本気でやるなら、生きるか死ぬか、徹底的にやらなきゃ気が済まず「許せない」。自分でそれが分かっているから「仲良く」と言っている。
人を斬るなら斬られる覚悟で。
9種に喧嘩を売るとか、けしかける時はそういう覚悟が必要ということです。
ちなみに「許せない」ということには、体癖が色濃く出ます。
上下型なら名誉が汚されるのは、左右型なら自分が大事にされないのは、ねじれ型なら負けるのは、前後型なら利益が脅かされるのは、開閉型なら種族に危機が及ぶのは、「許せない」。
そうなると普段の冷静さを欠いて行動します。
つまり逆鱗に触れるということ。
だから、これを刺激しなければ仲良くやっていけるし、仲良くせずとも棲み分けができる。
ただ逆に、ちょっとそこを刺激すれば全力を発揮し始めるということでもある。
急処の刺戟は、加減次第。
機・度・間。
そういう刺戟の方向と加減を「技術」と言うのかなと思います。
9種としては、種が保存されることを望んでいますので、そこさえ大切にしていただけるなら、わざわざ喧嘩は売りません。
まぁ、種族を守るためなら命を賭けるけど、喧嘩するよりは、創造、つまり産み育てることにエネルギーを使いたいというのが種族保存欲求ということなんでしょうね。
なぜ9種に「職人」とか「創造性」というキーワードがくっつくかと言うと、種族保存欲求つまり「生みたい」という要求の方向性から派生している。
性エネルギーの転換だから、その勢いで創る。
極限まで集注して緊り切らないと弛めないから、一旦やり出したら行くとこまで行くしかない。
これが完璧主義にも繋がる。
要求の方向を観るとはそういうことです。
体運動習性から見れば、骨盤が閉まりやすく、連動して全身が緊りやすい。
種族の危機や、種を保存するものに過敏反応を起こし、そういうものを嗅ぎ分ける嗅覚が勘の良さに繋がる。
秘密主義になるのは、生んだものが、盗まれたり汚されるのは愛娘を凌辱されるようなものだから、許せない。
だから箱入りにしたくなる
でもそれも加減次第、、箱入りにし過ぎて黴が生えたら元も子もないでしょ?
下ネタが「好き」で言ってるというより、感覚が生殖器と結びつくと実感が湧きやすいからそういう言葉になる。
シンプルに削ぎ落とした根本の意味が分からないと、他人の装飾した妄想に振り回される羽目になります。
一つ一つの特徴を覚えるより、方向性を観るということ。
シンプルさは究極の洗練である
Leonardo da Vinci
感受性の特徴は、どういうことがその人の行動に連なるかということが一番大切で、行動に連なる時が、その人の感受性が本当に動いている時だと考えるより外ない。・・・
いろいろな体癖に付いて、その処理の方法を学び、自分の体癖を知り、自分の在るべき状態をつかまえ出すということが大切です。そういう根拠を頭の中に作っておきませんと、自分の立処が判らないのです。
野口晴哉『嫁と姑 上巻』
9種はいくら「儲かりますよ」と言われても、自分の納得することしかできないし、ねじれは「やさしくして」と言われてもそっけない態度しかできないけど、外敵から守る優しさはある。
3種は「よく考えなさい」と言われたって肩が凝るだけだから、よく考えてる人に聞いたほうがいい。
自分に合わないことをやったって疲れるだけってことですね。
できないことを無理にやるより、得意なことをやっていく。
私の意見は9種として、立処を表明してるだけなので、気にせずそれぞれ要求の方向に伸びて下さいね。
同じ種ならば、方向は違っても繋がって成長している。
開閉型は根を張って支え、ねじれ型は幹のように強く太く、上下型は枝を伸ばして俯瞰し、前後型は葉を広げて栄養を運び、左右型は花を咲かせて愛嬌を振りまく。
根は深く張りたい要求に従えばいいけど、花を土に埋めても腐るだけ。
「要求の方向」の違いっていうのは、そんな感じ。
ちなみに「根に持つ」というのも9種を表現した言葉ですね♡(怖)
9種の収集癖
9種は種族保存欲求、つまり性欲ですが、それが転換されると収集癖になると言われています。
性というのは緊り=集注=集める力なので、コレクションになる。
これがいまいちピンときてなくて、、そんなに集めてるものってないけどなぁ。。
まぁ関連本をとりあえず全部揃えておきたくなるとか、はちょっとあるけど、そこまででもないし、、
なんかあるかな?って思ってたんですよ。
「何を集めてますか?」
と聞かれたら、
「男」
とでもお答えしたいところですけど、残念ながら。
ただ、
体癖別に集めてるんですよね、
人間。
気付いて自分でゾッとしてしまいました。
貴方もコレクションの一部になってみませんか♡(怖)
体癖を観る目を拓く
「体癖を観れるようになりたい」
と思いますよね?
どのように観察していけば観る目が拓かれるでしょう?
体癖だけで相手を判断するというのが不安なのですが。
体癖だけで相手を判断するのは不安だというのが当然であります。体癖は原型です、原始的な存在です。それにその人の生活様式、あるいは教養なり、生活の歴史なりが刻まれて参ります。その刻まれる方向にも体癖的な特徴があるけれども、どういうようにその人の教養が身についているか、その人がどういう歴史で生きて来た人かということは、みな当然その人間の中には入っております。ですから人間の観察という面では、体癖だけを見るというのは原色的な質だけを持ち出して見るというだけなのです。・・・
その人の体だけを見て、それが何故こう壊れるのか、どうして壊れるような体の使い方をしたのか、どこに体の要求に合わない生活の状況があるのかというのを見つけます。その人間の原型だけ、その命だけを見ていくというのが私の仕事でありますから、私は体癖だけを見て、少しの不安なく、その人の生活様式を見ることも、批判することも、指導することも出来ます。
けれども一般の人は、教養、趣味、生活状況をも含めて人間を見ていくのが自然だと思います。
野口晴哉「見える偏り 見えない偏り」 月刊全生令和六年二月号
「その人間の原型だけ、その命だけを見ていくというのが私の仕事でありますから、私は体癖だけを見て」
ここでも、晴哉さんが体癖を「命」と観ていることが判りますね。
我々は一般の人ですから、自分の興味のあることについて、体癖を見ていくのが自然だと思います。
差し当たっては、自分や身近な人の「要求の方向」を観察してみましょう。
「雰囲気を観る」ことの意味
これまで私は「体癖を観るなら、雰囲気を観て下さい」と言ってきたんですが、それは
気は波(螺旋)であり、
雰囲気を作るのはおそらく波形だから。
3つの体癖を観るのは、ベクトル分解(方向×エネルギー量)及び、フーリエ変換(周波数解析)した波に同調するイメージ。
愉気はその振動に共振する。
合わない環境や、べしべからずの自己教育は別の波を生じて干渉し、本来の波を弱める。
元気がない時、調子が出ない時は、表面がバチャバチャ、小さい波が色々混ざって複雑になってるのが愉気してれば感じるはず。
そんな表面の波をいくら見たってしょうがないでしょ?
じーっと相手の中心と繋がった深い潮流(方向と速度)に乗るつもりで愉気してると、呼吸が深くなって、波が大きくシンプルになってくる。本来の体癖を観るというのはそういうことです。
つかえやこわばり、たるみがあると、エネルギーの波がつっかえたり淀んだりしてスムーズに流れないため、それを交通整理するのが各種の整体法。
個人的には、交通整理というより、治水に近いイメージ。現代のコンクリで固めた川でなく、エジプトやメソポタミアのような生きた川。そういう意味でも、現代医療よりはむしろ、古代宗教(=科学)に親和性を感じる。
体が整うと、元々の気=波がはっきりと現れ、つまり元気が出て、全力を発揮できる。
要求の方向、生命の方向=体癖を大切にする意味。
整体の目的が全生という意味。
What is god?
Length, Breadth, Height, and Depth.
St.Bernard of Clairvaux Theologian
「あるものが神と呼ぶ存在の、別の名は物理法則」
「無限の宇宙の中で、すべてのものは動き、振動し、つまり生きている」
「宇宙の秘密を知りたければ、エネルギー、周波数、振動の視点から考えることだ」
Nikola Tesla
体癖のもと
体癖は「要求の方向」「生命の方向」「気の方向」ということですが、
その元になるのはなんでしょう?
体癖を知ると、自分の方向性に偏りがあることが分かります。
さらに、全ての人には偏りがあることが分かります。
生きているというのは、波があるということ。
波は偏りから生じます。
なぜなら、偏りがないのは円であり、偏り(方向)が生じることによって、螺旋=波のある生命が生まれるため。
生きている限り、偏りがなくなることはない。
偏りは要求、前進の勢いであり、要求を満たしながら生を全うすると、円満になって人は死ぬ。
体癖とは、生命=要求の方向である。
生命とは、波=螺旋である。
波を観るのは、勢いを観るということ。
ヒョッとしたら体癖のもとは波であるかもしれない。
野口晴哉「体の波」 月刊全生令和五年十月号
まとめ
いかがでしたか?
ある程度体癖を研究していたり、野口整体に親しんでないと、ポカンとしてしまったかもしれませんが、
体癖の根本的な概念のお話でした。
「体癖とはなにか?」
が分かっていないということは、体癖が観えていないということです。
体癖を「知っていた」方は、本当に「知っていた」と言えますか?
「無知の知」より学びは始まる。
まぁ、体癖を「性格」とか「体型」として見てると一生沼にハマったままだと思いますが、頑張ってください!
ただ、恩師としてはもちろん、父や祖父、親友のように大切に思ってる人たちもいますから、
その泥で野口晴哉さんを汚さないようにお願いします。
なんて言うから9種は意地悪って言われるんですけどね。
ほんとのこと言ってあげた方が親切だと思ってるだけなんだけど(毒舌=愛情表現)、失礼しちゃう。
でも晴哉さんの好きな荘子で言えば、
対立も一如。
泥だって見方次第。
泥には生命力と可能性を感じるし、
泥遊びって楽しいもんね、ほんとは私も大好き!
蓮の華は泥に咲く。
定義や概念なんて人が健康になるならどーでもよくて、その都度変わってきた。
泥んこ遊びとサーフィン、どっちが正しいか議論するなんて下らないでしょ?
どっちがいいなんてことはないんだけど、今回は波乗り気分で書いたってこと。
泥はこねてもいいが、遊びとて全力。
手ぇ出すなら命懸けでやろうね〜ってこと♡
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